最近、ここ上川盆地は内地の梅雨さながらの雨ばかり(さすがに湿度は低いが)で、夜は10℃以下に気温が下がることもしばしばだ(この時期、ここいらでここまで気温が下がるのはさすがに珍しいそうだ)。日照不足や冷害のせいか、カリ欠乏症やアブラムシ被害、ヘタ腐れなどのカビ被害などなど、ここにきてトマトにいろいろな病気がみられるようになってきた。そして、見ての通りの単一作物栽培である。ここにはコンパニオンプランツや自然農法などの考え方は微塵もない(or 通用する世界ではない)。作物以外の植物や(セイヨウオオマルハナバチを除く)虫たちはすべて排除対象となる。以前のエントリーのとおり、資本主義社会の土俵の上で暮らす人々の要求を満たす野菜作りは、ただただ化学肥料と農薬が頼みの綱であり、「雑草」という植物や「害虫・益虫」という虫が存在する。
おいしい食事をしながら環境保全について語り合おう。
農薬を浴びて育った野菜を食べながら。
現代人は何と滑稽なんだろう。
そんなわけでここ最近の僕の主な仕事は、ありとあらゆる種類の化学肥料や農薬の散布だ。写真は、地面に直接液肥(闘魂?)を注入し、トマトを元気にする仕事だ。
ここ数年、東芝をはじめとした異業種参入や、「ロックウール栽培」など、ITや最新工学を駆使した野菜作りをよく耳にするようになってきた。要するに「土を使わない栽培」だ。僕は農業や野菜づくりをかじりはじめた当初から、この手の野菜づくりを嫌悪していた。土や草の匂いや感触、太陽の下で汗水垂らしながらする仕事、そんなプリミティブな感覚からかけ離れ、無菌室の中、LEDという太陽のもとで数値とにらめっこする野菜づくりが、生理的に受け入れ難かったのだ。そんな手法でおいしい野菜が作れるはずがない!土で育てた野菜のほうが栄養価が高いに決まっている!と。だってそうだろう?僕ら人間は1万年ほども前から、土を耕し、お天道様や雨を祈りながら、自然とそこに暮らす生きものたちと一緒に作物を育て、つくり、食べ、命をつないできたのだから。大いなる地球の恵みによって生かされてきたのだから。
だけど、「現代の(単一作物栽培)農業」を経験し、「農薬を撒く人」になった今、僕には新たな、思いもよらない考えが芽生えてきた。「どっちも大して変わらないじゃないか」と。むしろ「土を使わない農業」のほうが、農薬使用量の最適化などによる地下水汚染や生態系破壊の低減、トラクターや作業機、資機材や暖房など農家を圧迫する経営コストの軽減。天候や季節に左右されない安定した収穫(=安定した収入)などなど、いいことづくめなのではないか?とさえ思っている自分がいるのだ。だって、地方の人口がどんどん減り、離農者や休耕地が増え、就農者も減り、春夏秋冬の野菜たちがいつでも安価で安定して手に入ることが要求され、余った食べ物は捨てたい放題。そのくせ環境問題や絶滅危惧の動植物たちには、実感を伴わない「バーチャルな」嘆きや非難を叫ぶ(身近な普通種には目もくれないのに)。そんな手前勝手な社会には「土を使わない農業」のほうが都合がよく、言い訳もきくのだから。
そしてこの先、そんな「データ農業」が社会に浸透し、命の源である食物にまで工学化がすすんでいくとするならば、僕らは大地の恵み、大いなる地球の循環からいよいよ大きく逸れていくことになるのではないか?と思えてくるのだ。この地球でますます寂しく、孤立した種族になっていってしまうのではないか?と。
思い出して欲しい、僕らはすでにコンクリートなどの人工物に囲まれ、微気候を自在にコントロールでき、昼と同じように夜を過ごし、自然を読み解き活かす知恵や自分たちの暮らす星の大いなる営みを、ほとんど忘れてしまっているということを(あるいは、忘れてしまっても生存できる世界を構築したというべきか?)。
僕らはロボットになるべきだろうか?
しょうもないニンゲンでいるべきだろうか?
僕ら人間はいま、幸せなのだろうか?
しあわせに向かっているのだろうか?
ビニールハウスの天井を打ちつける雨の音のなか
黙々と仕事をこなしながら
そんなことばかり、ぼんやりと考えている。