カブトムシ in 北海道




農家で毎日大切に育てられる野菜たち。その中には、正品にも規格外品にもならず、投げられる(捨てられる)運命のものが少なからずある。もちろんそれらはダメな部位を除去すれば問題なく食べられるものだ。我々人間は、厳しく選りすぐられた果実にお金を払い、そして食べているのだ。

そんな、人間にとって「価値」のない果実たちも、ましてや収穫や手入れの際取り除かれる茎や葉でさえも、生きものたちや自然界にとってはすべてに「価値」がある。捨てられた果実たちには虫や動物たちがたくさんやってくるし、その栄養分は大地に染み込み、水に運ばれ、木々や草木の養分となる。それらを食べる虫や動物たちの糞尿も同様だ。そしてそんな果実たち自身も、美味しい実をつけて食べられようと、糞として排出されようと、たとえ捨てられようと、生存戦略・子孫繁栄に成功している。どう転んでも、彼らの方が人間より一枚上手なのだ。

無駄なものなど何ひとつとして無い。
すべてが完璧に循環している。
すべては必然の範疇である。

我々人間も、その地球の完璧な循環の一端であるはずなのに、いつまで「異端者」として振る舞い続けるのだろう?(あるいは、そんな振る舞いも必然の範疇なのだろうか?)そして、我々人間はいつまで見誤った「価値」に依存した暮らしを続けているのだろう?


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そんな一人の人間ごときの、ちっぽけな哲学などお構いもなく、そして、自分たちが人間たちの見誤った「価値」によって北海道に連れてこられた事など知る由もなく(こうなることも必然の範疇だろうか?)、今日もまたカブトムシが、投げられたトマトにガッチリしがみつき、甘い汁を吸っている。

生きるために。
命をつなぐために。

そのひたむきな姿は
愛らしく、美しく、そして輝いている。

そう感じるのは、
自分が異端者であることの後ろめたさからだろうか?
それとも、
生きることにまっすぐな彼らへの憧憬からだろうか?