酪農はしあわせな仕事

フリーストール牛舎にて。のんびりする牛たち


ほんの数ヶ月だったけど、酪農の仕事は素晴らしいものだった。その経験で感じたことを率直に綴ってみたいと思う。いろいろと御託を並べたけどとにかく、酪農はとても良い仕事だ。牛たちはとってもかわいくて、心に幸せや安らぎを与えてくれる。一般的な切り口とはかなり異なると思うけど、酪農の仕事に興味を持っていたり、これから挑戦しようと思っている方にもし響くものがあれば、幸いだ。



●酪農の仕事を経験してみて、思うこと


そもそも牛乳は「母牛が自分の仔の成長のために出す母乳」だ。だから、本来は人間が飲むものではない。それを我々人間は牛たちから分けてもらっていて、牛乳をはじめチーズやバター、ヨーグルトなど、さまざまな食品に加工して食べている。


牛たちがのんびり牧草を食む、広大な放牧場。
道東で酪農をしていると、人間がどんなにちっぽけな
存在か実感する。そして、感動する。
この「母牛が自分の仔の成長のために出す母乳」という事実・本質を、現代人はもうほとんど忘れているのではないだろうか?牛乳は人間の飲みものと思い込んでいたり、単なる「紙パックに入った白色の飲み物」としか感じなくなっていたり、牛乳が紙パックに入るまでのプロセスを忘れてしまっているのでないか。酪農の仕事を経験してから僕は、そんなふうに思うようになった。それは野菜も同様だ。野菜は、土を耕し、種を植え、守り、育て、収穫して初めて果実を得ることができる。牛乳はといえば、母牛が産んだ仔を大事に育て、成長したら仔を産ませ、乳を張らせ、搾乳し、検査し、殺菌し、紙パックに詰めてはじめて飲むことができる。ほとんどの現代人は、それらのプロセスを全て飛び越え、「お金を払う」という行為によって、いきなり紙パックや果実の状態で獲得している。生きるため、命を繋ぎとめるためには、まず食べなければならない。生きることの基本は、食べることだ。その食べもののつくり方や育て方は忘れ去られ、現代人は、「世のため人のため」という大義名分を保険に、毎日毎日お金を無限増殖させることに躍起になっている。人間は、物事をお金で解決することに馴れきってしまった。お金の奴隷となってしまった。本当の生きるよろこびから、だいぶ離れたところまで来てしまったーーー牛たちと直接触れ合い、搾乳や世話をしていると、そんなプリミティブで本質的な事を、あらためてひしひしと考えるようになる。「命」と真正面から向き合い、ぶつかりあい、そして「生きる」ということの本当の意味を問われ、考えるようになる。少なくとも僕にとって、酪農はそういう仕事だ。




●酪農はしあわせな仕事


幼い仔牛。めちゃめちゃかわいい(^^)
というわけで、酪農はとてもやりがいのある素晴らしい仕事だ。だけどもちろん、言うまでもなくハードだ。よく「酪農は3K」と言われるようだが、ハッキリ言ってその通りである。「きつい」「汚い」「危険」なのをはじめ、「臭い」「給料が安い」などなど、いろんなKが当てはまる職業だ。もちろん、飼養している牛の頭数や、牧場の経営方針などによってその差は様々だということは、誤解のないように付け加えておきたい。とにかく、大変な仕事だということに変わりはない。ベッド掃除や除糞、牛追い、そして搾乳など、仕事には相当の体力を要するし、ロータリーパーラーでの搾乳作業では糞尿まみれになる。牛はいつでもどこでも、野性のまま、したいときにする!だから、搾乳中でも爆弾投下のように頭上からウンコが落っこちてくるし(軟便のウンコはさながらクラスター爆弾だ)、水道の蛇口を全開フルスロットルにしたような、滝のようなオシッコも落ちてくる。だけど、しばらくするとウンコも臭いも何ともなくなる(笑)そして、成牛ともなれば体重500〜700kgにもなる彼女らの力は、人間が太刀打ちできるものではない。搾乳中など、もしその蹄でまともに手でも踏まれれば、まず間違いなく骨折するし、パーラーの柱で防いではいるものの、強烈な蹴りにも注意しなければならない。また、発情期で興奮している彼女らに乗っかられたり、走ったり飛び跳ねている彼女らの体当たりをもしまともに食らおうものなら、致命傷を負うことは必至だ。彼女らの群れに入っていくのは、まさしく自殺行為である。酪農はそんな「3Kどストライク」のたいへんな仕事だけれども、それを補って余りあるほどの「しあわせ」がある。牛たちは僕らにたくさんの「生きるよろこび」や「命の尊さ」を惜しみもなく教えてくれ、分け与えてくれ、心を幸せで満たしてくれる。




●牛は人間の素晴らしいパートナー


とはいえ、酪農は商売であり、牛たちはその道具となる。牛たちにはみんな個性があり、しばらく付き合っているとそんなところがいろいろわかってきて、情がわいてくるのだけれども、やはり、トマトのビニールハウスで暮らすセイヨウオオマルハナバチと同じように、結末が待っている。酪農の世界では、それを「廃用」というらしい。


ーーー なんてひどい言葉だ ーーー


まだ乳の張っていない
若い牛たち
牛たちから乳を文字通り搾るだけ搾り取っておいて、用が済めば「廃用」だなんて、、、。だが、それが資本主義社会。すべてはカネだ。弱いものは搾取される。言い換えれば、、、いや、ハッキリ言えば、そんな結末を牛たちに強要している、こき使っているのは、他でもない人間なのだ。資本主義の土俵上で語られる正義など詭弁だ。人間の営みのせいで絶滅の危機に瀕している生きものたちのドキュメンタリーに心打たれながら、牛乳や牛肉を喰らっている。本来、生きることに正義も悪も、無い。むきだしの生がまずあり、その周りに余計な物事が付いて回る。それが人間の世界。そして今の世の中は「生きることの生臭さ」をひた隠しにしようとする。エモーションよりも、情よりも、ロジックが優先される。取り憑かれたように論理の辻褄を合わせようとする。そのくせ、人間社会の抱える矛盾からは誰もが目を反らし、悪を創り出し、正義を語りたがる。僕はそれが、すごく気に入らない。


ふわふわの藁のベッドで
すやすや眠る仔牛たち
牛たちについて言えば、”仕事”を引退した牛たちがのんびり余生を暮らすことができる「養護牧場」ができればいいのに、と思う。だけどそれはたぶん、許されない。人間は生きものたちに、酷い仕打ちばかりしている。だからせめて人間は、もっともっと牛たちに、生きものたちに、感謝しなくてはならない。犬などはよく「人間の良きパートナー」と言われるが、なぜ牛たちはそう言われないのだろう?僕らは牛たちから牛乳をもらい、肉をもらい、革をもらい、心の安らぎをもらい、糞尿までも肥料としてもらっている。人間は牛に世話になりっぱなしだ。牛こそ人間の素晴らしいパートナーだと、僕は思うのだ。




●牛は心優しく、力強い生きもの


そんな仕打ちをしているにもかかわらず、牛たちのまなざしはいつも優しく、穏やかで、いつものんびりとしている。水飲み場を掃除していると、後ろから舐めてきたり、頭を擦り付けてじゃれてくる。なんだか「いつもありがとう」と言ってくれているような気がして、ときどき涙が出そうになることもある。たまに、牛舎から外の空をぼんやり眺めている子がいて、そんな子をみると切なくなってくる。牛舎から連れ出して、空の下で自由にさせてあげたいと。今日、合理化や効率化のため牛の頭数を増やし、放牧をやめる牧場が増えているそうなーーー。

人間も、牛も、すべての生きものたちが穏やかに、しあわせに生きていけたらいいのに。僕ら人間の愚かな行いは、のんびり草を食み、寝そべって反芻する牛たちに、どうみえているのだろうか。