生態学的ニッチを、人間社会に置き換えて考えてみる。

広大な雪原を横断するキタキツネのフットプリント。
北海道の冬は厳しいが、ここが彼らの住むところだ。


恩師である生態学の先生のもとで学び、鍛えていただいたこと数年。それ以来僕は、自然界のみならず、人間の生態をはじめ、社会や文化、文明、振る舞いなど、ヒト(ホモ・サピエンス)の世界の物事についても、あらゆる物事を生物学的・生態学的見地から考えるようになった。いや、考えることが普通になった。と言ったほうが正しい。今ではもう、これからの時代、誰しもがそう考えることを基本とするべきだとさえ、思うようになっている。人間の世界のいろんな物事を生物学的・生態学的に考えると、いろいろと面白く、辻褄が合ったり、理解できることも少なくないのである。例えばひとつ挙げると、どこかの会社の社長さんやお父さんは、会社や家庭という「生態系」におけるアンブレラ種。経理部の部長さんやお母さんはキーストーン種。稼ぎ頭の営業さんや子どもはシンボル種。といった具合だ。それと例えば子育てについて、核家族だけでの育児がいかに難しく、進化の歴史・必然から逸しているか(ほとんどの霊長類は、属するコミュニティの協力を得ながら子育てする。だから、核家族化が進んだ現代では、お母さんたちが「ママ友」グループをつくったり属したりするのは、生物学的・生態学的に必然の行動なのだという。)など、現代の人間社会の諸問題を生物学的・生態学的見地から考察するメディアコンテンツも増えてきたと感じている。人間も動物だ。人間の行動には、獲得した自由意志を駆使する根拠として、他のあらゆる生きものたちと同様、進化の過程で培ってきた「生存・遺伝子継承本能」が完全に機能しているという大原則があると思う。しかし、かくいう自分自身の事については、生態学的にも、そうじゃなくても、いまだによくわからないことがいろいろあったりする。


生物学や生態学にはほかにもたくさんの用語や概念がある。「生態学的ニッチ(ecological niche)」と「生態学的ギルド(ecological guild)」というものもそうだ。ざっくり言うと、ギルドとは、ある共通の餌を利用している生きもの。ニッチとは、ある生きものが生きていくために必要な環境要素・要因。生態学的地位とも言う。例えば、ある鳥と成体のカエルはどちらも昆虫を食べるので同じギルドだが、それぞれ異なる場所・環境・ハビタットに暮らし、適応しているため、ニッチは異なる。詳しくは検索で。


このニッチとギルドという概念、僕はこれが、人間社会における、一人ひとりの「社会的地位」として置き換えて考えることができるのではと思っている。人間社会をひとつの大きな生態系と捉え、そのなかでの一人ひとりの地域的・社会的ポジションを、ニッチとギルドに置き換えて考えてみるのだ。


ギルドについて言えば例えば、僕ら現代人のほとんどが共通の餌(お金!!)に依存して生きている。


お金を「餌」と言っても何もおかしくないだろう?
だってほとんどの人間は、食べ物や住処を手に入れるために、
まずお金を払っているのだから。
動物を狩ったり、虫を捕まえたり、草や果実を探したり、
食べ物を「直接」手に入れ、食べる人間なんて、
自分の住処を一からつくる人間なんて、
もうほとんどいないのだから。


しかし、とある原住民や先住民族などはこの限りではないので、この両者は異なるギルドである(、、、それにしても、こういうふうに解釈してみると、地球上の99.99%の人間は、ほんとうにお金の奴隷となってしまっていることがよくわかる。)。
そしてニッチ。経済の話に転用されることが多い用語だ。しかしそんな事よりも、僕はこのニッチというものに、これからの未来、人間一人ひとりが、イデオロギーやパラダイムに依らず・支配されず、「人間として・人間らしく」より良く生きていくためのヒントが、たくさん隠されているのではないかと思っている。


キタキツネとエゾユキウサギの足跡。キタキツネの足跡の
方が、ちょっとだけ新しい。
まずはこのニッチを、人間社会における「生活環境」と「仕事(職種)」という2大カテゴリーに分けて考えていきたいと思う。まずは「生活環境」。これを「都会」と「田舎」、その中間である「緩衝地帯(バッファーゾーン)」という3つのニッチに大分類してみる。そしてその3ニッチには風土ーーー熱帯地・温暖地・寒冷地という「気候」、下流域・中流域・上流域という「標高」など。そしてさらに「地域性」や「人口密度」などさまざまなパラメーターがあり、そのパラメーターのレベルによってたくさんのニッチが成立する。
そして「仕事(職種)」。人間は仕事をしなければ、社会と係わっていなければダメになる生きものだ。「仕事(職種)」にもたくさんのニッチがある。一次・二次・三次産業という3大ニッチがあり、一次には農業・林業・漁業があり、農業には畑作・ハウス栽培・果樹・花卉・園芸・酪農業・畜産業などがあり、さらに細分化されたニッチがある。二次・三次産業も同様だし、どこにも分類されない特殊な仕事もあるし、それこそ多種多様なニッチが成立する。
この2大カテゴリーで出来たニッチたちをそれぞれリンクさせ、その上で再分類してみると、実にさまざまなニッチが成立する。宇宙に広がる星たちのように、無数のニッチが存在しているのだ。


こうして無数に存在するニッチを俯瞰してみると、表面的ではあるものの、人間社会のいろいろな問題が図式化・可視化され、わかりやすく浮かび上がってくる。まずは「都会」。都会には溢れんばかりの様々なニッチがあるが、どれもが満席状態だ。そして入れ替わりも激しく、ひとたび空席ができようものなら、熾烈な席の奪い合いが起こる。奪い合いに敗北したものは別のニッチを探し、また競争する。それでもニッチを獲得できない者は、都会という生物群集から脱落する。それがニートや引きこもり、生活保護受給者になったり、あるいは保育園や養護施設の空きだったり、病院のベッドだったり、果てには心が荒んだり、凶悪犯罪が増加したり、、、。対して「田舎」では、ニッチの数こそ都会と比べかなり少なく、競争の激しいニッチももちろんあるけれども、ほとんどのニッチは概ね余裕があったりする。


1月に札幌市内で撮ったシジュウカラ。この時期、美瑛で
彼らを見ることはまず無い。見るのは専ら同じ科の
ハシブトガラ(or コガラ)だ。やっぱり彼らは、ちょっと
賑やかなところがお好き?旭川市内だったらこの時期にも
いるのかなぁ?
僕はずっと前から思っていたし、こういった考えをするようになってから尚更感じるのだけど、都会という異常なほど密度が高く、競争も激烈な場所でニッチーーー【自分の居場所】ーーーを見つけられず、引きこもりや生活保護受給者になってしまったり、「保育園落ちた日本◯ね」などと悪態をつくようになってもなお、都会という生態系にしがみつくのは何故なんだろう?もちろん先祖代々住み慣れた土地ということもあるだろうし、やはり田舎は刺激も少なく、ほとんどの人は退屈に感じてしまうからなのかもしれない。逆にコンクリートジャングルの中で早送り再生のような生活をしていく方に適応性があり、田舎から都会へ移り、ニッチを見つける者も当然いるだろう。そしてなかにはコウモリやフクロウやネコ科など夜行性の動物たちのように、夜のほうが活動的になる人もいるだろうし、あるいはスカベンジャーのような生き方を好み、夜の長い都会の、雑多な盛り場をハビタットに、自分のニッチにする人もいるだろう。いずれにしても、やはり現代は、いや、いつの時代も「都会偏重パラダイム」が優占するのは仕方のないことなのだろうか。逆説的には、そうやって都会が優先されることのなかにこそ、田舎の存在意義や価値があったりもするのだけど、、、。こうやって考えてみると、生きものの世界でも、やはり下流域は海も近く、上流域と比べ気候も穏やかで暮らしやすいため、必然的に生きものたちが多く集まり、生物多様性も生息密度も高くなる。そのため生存競争も熾烈だ。人間社会についても同様、下流域は扇状地が広がるため平坦で発展・開発もしやすく、輸送も楽なので、やはり概ね下流域に都市が出来る、、、。しかし、生きものたちの世界では、いくら生物多様性や生息密度が高くなっても、飽和しない。撹乱が起きても、どんなになっても、結局すべてうまく鞘に納まるのである。分子が分母を上回る状態がいつまでも続くことはないのだ。すべての生きものが、自分のニッチをうまく見つけるのだ。


なぜ人間は、それができないのだろう?
それとも、現代の状況は、ちゃんと均衡を保っている状態なのだろうか?うまく鞘に納まっているのだろうか?僕はまったく、そうは思えない。


だから、都会で自分のニッチを見つけられない人は、田舎で「自分らしいニッチ」を探してみるのもいいと思うのだ。引きこもりなどになってしまう人は、心が優しく、そもそも競争が苦手な人も少なくないのだと思う。だいぶ持ち上げた例えになるが、そういう人は、人間社会における「絶滅危惧種」と呼べるのかもしれない。そういう人にこそ、農業、とりわけ酪農や畜産の仕事なんかはうってつけなのではと、僕は勝手に思っている。極地に来てニッチを見つけ、独自に分化・進化することを試みるのもアリではないか。
そういう僕も実のところ、都会で「自分が生きていきたいと思うニッチ」が無かった人間だ。しかもそれは、小さな頃から本能的に、無意識のうちにわかっていた。
だいぶ長い時間がかかったけど、今、僕は自分のニッチをだいたい見つけることができた。今は分化・進化の最中だ。