ちょっと早い今年の総括と、旅人と、美瑛について

8月上旬、夏真っ盛りの頃の美瑛の丘


 もうすぐ移住丸3年を迎え、さすがに当初のようなロマンチックな感情を四六時中抱く事は少なくなった。それでもたまに丘や山の上で立ち止まり、十勝岳連峰に抱かれたこの広大な農村丘陵を眺めるたびに、いつも思う。僕の想いに何一つ変わりがないことを。


 「パーマカルチャーに根ざしながら、自然環境や生きものたちとともに穏やかに生きていきたい。」。僕が目指すスローライフの実現に向け、自身のバックボーンや適性などと向き合いながら、どういった仕事をしていけばいいのか、ワークライフバランスはどのようにすればいいのかーーー。実際に経験し、アタマではなくカラダで感じ、考え、確認し、見積もりを出す。そして理想と現実のギャップの大きさを確かめ、擦り合わせ、妥協点を探る。昨年の道東での酪農に引き続き、今年も自身に課したプロジェクトが終わった。酪農と同様、実際にやってみたことで、似たような仕事をしていた過去の自分ーーー(いい意味でもわるい意味でも)無欲に働いていた20代のあの頃ーーーの体感や感情の追体験ができ、あの頃の自分と今の自分との違いや「折り合い」なんかもついた。そして思いがけず、今後の新たな展望もみえてきた。それは今年のプロジェクトをやっていなかったら決してみえてこなかった事だ。この3年でいろいろな答えが出た。収穫を終え、来年の作付け計画や展望をぼんやり考えながら、しばし冬の休息を楽しむ。今はそんな農家さんのような心境だ。だけど同時に、微かなプレッシャーのようなものも感じている。自ら設定した「3年間のテスト期間」が、これで終わりを迎えるからだ。


みんな「普通の人々」


5月上旬、雪の残る十勝岳連峰と
美瑛川
僕は今年、観光関連の仕事をしていた。美瑛は農業の町だ。そしてその農業の営みがあってこその観光の町でもある。したがって町の仕事はその2つに紐付いたものが当然多い。逆に言えば、それ以外の仕事の選択肢は多くない。そんな中で今年、テスト最後の年に自分に課したプロジェクトがこの仕事ーーーこれまで自分が経験してきたあらゆる仕事とリンクする仕事ーーーだ。前述のとおり得たものがたくさんあったが、そのなかの一つに「外国人コンプレックス」が無くなったことがある。美瑛は外国人(特にアジア系)観光客がたくさん訪れる。したがって宿泊者なども当然外国人が多く、英語で話すことが多くなってくる。今まで独学で英語をかじっていたが、それが今回の経験でそれなりに場数を踏むことができ、補強された感じだ。English Speakerへの要求や提案など簡単な意思疎通ができるようになったし、軽い笑い話もできるようになった。もし「これで海外旅行に行け」とお金を手渡されたのなら、今すぐにでも飛び立てる(笑)。もう「外国人恐怖症」のようなものは僕にはない。その正体は「意思疎通ができないことによる恐怖(そしてそれは誤解や偏見に繋がる)」なのだということもわかった。(相手の話す英語が理解できている・多少の英会話力を有しているという前提で)大体みんな気さくにコミュニケーションしてくれるし、うまく伝わらなくても何とか意思疎通をはかろうと努力してくれる。例えて言うなら、初対面の日本人どうしでのコミュニケーションの感じと大して変わらないのである。変わるのは使う言語だけだ。日本人としては理解に苦しむ文化や習慣の違いこそあれど、どの国の人々もみんな自分と変わらない「普通に生活する人々」なのだ。とりとめもない事を話し、美味しいものに興奮したり、素晴らしい景色に感動したり、しょうもないことを気にしたり笑ったり、そしてたまには悪態もつくーーー。開陽台で北方領土を初めてみたときに感じた事が、改めて実感できたような思いだ。


「観光客」と「旅人」


10月下旬、三愛の丘付近
そして、他にも感じたことがある。旅行者は「観光客」と「旅人」の2種類がいるということだ。青い池に四季彩の丘、千代田ファーム、丘の展望台、美瑛選果、パンフレットに載っている飲食店、、、。「観光客」は朝から夜遅くまで行く場所の予定をぎゅうぎゅうに詰め込んで、まるで「旅行はスピード勝負・戦いだ!のんびりするなんてモッタイナイ!」と言わんばかりに、有名スポットを次々に訪れては足早に去っていく。まるでSNSに投稿することだったり、「行ったことがあるという実体験を積み上げる事」が、旅の目的になっているかのようだ。「行ったところリスト」がチェックマークで埋まればそれで満足なのだろうか?もちろんそんな楽しみ方もいいのかもしれない。だけど、それで一体何が心に残るというのだろう?
 対して、「旅人」の印象はまるでちがう。(あくまで一例だが)朝、宿の周りを軽く散歩し、午前中は部屋で日記をつけたり本を読んだりのんびりしたあと、なんとなくふらっと出かける。振る舞いもどこか控えめで落ち着いている。有名スポットなどではなく、「どこか物想いに耽る場所」を探しに来たようにも感じられる。あるいは、その人の「普段の暮らし」そのままを、旅先に持ってきたとも言えるかもしれない。僕の旅先での行動パターンも、だいたいいつもそんな感じだ。行ってみたいところをいくつか見繕って、ふら〜っと出かける。そしてまずは旅先でとにかく歩く。なにはともあれまずは歩きたいのである。歩きながら行き交う人々を眺めたり商店街をぶらぶらしたり、、、。今思うと、それは初対面の土地と自分との距離を縮める・その土地に自分を馴染ませようとする、自分なりの「儀式」のようなものなのかもしれない。


旅人が想いを馳せることができる
「余白」が残る土地


今日、「セブンスターの木」と呼ばれている
カシワと白樺並木付近。
美瑛は不思議な土地だ。農業、そしてその営みが織りなす美しい丘陵景観、あるいは十勝岳連峰や森林・河川・湖沼などの豊かな自然環境や、それを拠り所とする動植物を対象としたエコツーリズムなど、観光や誘致に資する豊富な資源や手段があるにも関わらず、そのポテンシャルをうまく生かしきれていない。少なくとも僕はもうすぐ3年になる暮らしでそう感じている。でも、そんな「空白」や「隙」や、それに良い意味での「中途半端さ」が「まだたくさん残されている」からこそ、僕のような放浪人が何かを探し求め、ふらっと訪れる・引き寄せられる土地であり続けられているのかもしれない。


 もっと「しっかり遊べる」ソフィスティケイトされた観光地が良い?それなら富良野に行けばいい。今や一級の観光地だ(かつては違っていただろうが、、、)。ビジネスホテルのような安くて手軽な・リーズナブルな宿に泊まりたい?夜遅くまで開いている店はないのか?それなら旭川に行ってほしい。便利で、キラキラしてて、都会の我儘や融通を通したい観光をお望みなら、迷わず旭川や富良野をお勧めする。
 美瑛はそういう土地じゃない。美瑛だけは、これからもずっと、旅人が想いを馳せることができる「余白」の残る、旅人たちのブルースが聴こえてくる、素朴で、いいかげんで、ほどよく静かで賑やかで、慎ましく、そして遥かな土地であり続けてほしい。僕の変わらない想いとともに。そう、十勝岳連峰に抱かれたこの広大な農村丘陵を眺めるたびに、いつも思うのだ。


9月上旬頃、美瑛の空