THE ONLY CONSTANT IS CHANGE.2: 資本主義は全体主義のドッペルゲンガー



 人間は、いったい何のために働くのだろう?「仕事」とは、「労働」とは、いったい何なのだろう?───はるか昔、人類の、人類による「社会」というものが認識・形成されるようになってから今日まで、おそらく大多数の人間にとって不変の・普遍の、全人類的に未だ答えの出ない問いなのではないだろうか。

 かつて「仕事」というものは「生きることそのもの」に直結していた。採集狩猟時代には、獣を狩ることそのものもさることながら、そのための戦略を練ること、そのための道具を作ること、その道具を作るための素材を収集すること、そしてそれらを体系化し、共有し、後世に伝え、その技術に磨きをかけていくこと、それら一連の行為が「仕事」というものだった。それは農耕時代になっても同様だろう。すなわち、元来「仕事」というものは、「食べるものを得ることそのもの」だった。そして、次第に戦略を練ることが得意な者、狩猟道具を作ることが得意なもの、その素材を集めることが得意なもの、獲物を調理することが得意なもの、などが台頭するようになり、それらを専門とする「分野」というものが成立し、そして「仕事」というものが細分化されていったのではと思う。しかし、あくまでもその各「分野」は、「食べるものを得ることそのもの」に直結していたはずである。

 ───ところが、今は、現代はどうだろうか?日々の疲れがとれないまま、毎日睡眠負債をじりじりと重ねながら、毎朝半ば自己強制的に──強迫的に──起床し、朝食もろくに摂らず、ハウスダストや、近隣の騒音などに悩まされる「ローン地獄」の我が家を忙しく飛び出し、空気の悪い、コンクリート迷宮の街に出、酸欠になりそうなほどの、パーソナルスペースもへったくれもない、ぎゅうぎゅう詰めの満員電車やバスに秒単位で駆け込み、車内では、周囲への警戒と、無関心を装いながら、手のひらほどの画面とその先のバーチャルな世界に一時の逃避をし、あるいは負債をすこしでも取り戻そうと一時の仮眠を試みる。「仕事場」につけば、夕方──あるいは深夜まで──ほとんど座ったまま、パソコンのモニターや「売り上げ」を睨みつづけ、昼食や夕食には、「今日も忙しいねえ。」などとあからさまな──いかにも全体主義的な──愛想をお互いに確認し合い──お前も俺と同類だよな?──ながら、化学調味料など添加物てんこ盛りの加工食品を食べ、そして布団の中で再び、小さな画面──仮初めの逃避場所──を眺めながら、眠りに落ちる。春も、夏も、秋も、冬ですらも休みなく、そんな人生を延々と過ごす──過ごさざるを得ない!──のである。そんな毎日のなか、人々が口を揃えて言うのは「お客様のため」「社会のため」「世の中のため」───

 それらは果たして本心からなのだろうか?「お客様のため」 ?「社会のため」?「世の中のため」?───否!!それらはすべて口実なのである。前述のとおり、「仕事」とは本来「食べるものを得ることそのもの」である(あった)はず。つまり、突き詰めれば「他でもない自分自身が生き延びる」ための行為・行動、それが「仕事」というものの本質なはずなのである。「お客様のため」 「社会のため」「世の中のため」というのは、その本質の延長上にある副次的効果に過ぎない。なぜならば、自分自身の生存が担保されてはじめて、「人のために働く」ことができるからである。したがって、我々現代人とその社会は、大人たち同士はおろか、子どもたちに対してまで、公然と、そして平然と、嘘をついているのである。すなわち、現代社会は、我々自身による、「大いなる嘘」によって成立・醸成されているということに他ならないのだ。とまで言ったら、多少言い過ぎであることは認めようと思うが。───

 現代社会では──採集狩猟・農耕時代にも少しはいただろうが──、「仕事に行きたくない」「働くのが嫌だ」という人が少なくない。それは現代の仕事が、その本質からことごとく遠くに離れてしまったからではないだろうか?「とてもつらいもの」なってしまったからではないだろうか?そして今や、その本質に近いはずの仕事──農業や酪農、畜産、漁業、林業など農林水産業──でさえも、「キツいから嫌だ」と敬遠され、自国民以外に押し付けられるという有様だ!!現代人はなんと怠けることに馴れてしまったのだろう。それは自分の命を、自分以外の人間に「依存」している・「他人を当てにしている」ということに等しい。ついにはスポーツ選手、、、この嘘に塗り固められた現代社会の毎日に疲れ果てた人々──嘘をつきつづける自分に疲れ果て、自己嫌悪に打ちのめされ、ついにはそれを許容してしまった人々──に「希望を与える」ひと握りの人々が行う競技が、「仕事として成立」し、しかも一般のサラリーマンとは比較にならないくらいの、法外な報酬を受け取っているにもかかわらず、その事実が嬉々として人々から受け入れられている有様である(興味のない人からみたら、これほど理不尽を極めた現実などないだろう)。この、もはや支離滅裂な、極めて異常な社会(特に都市部)において、引きこもりや脱落者、倒錯者、狂人、確信犯などの精神異常者が続出することは自明であろう。我々は、自分で自分を傷つけ、そして手当てをしながら、今にも気が狂ってしまいそうな自分自身の精神を、誰もがなんとか抑えている。それにもかかわらず、その自傷行為の原因には誰も目を向けようとはしない。そして今や傷だらけとなり、ついには膿だらけになっている。それでも、まだ何とかなると自らに思いこませ、マネーゲームに明け暮れている。もうわかっているだろう。───


現代人は「生きるため」に仕事をしているのではない。
「お金のため」に仕事をしているのだ。


───。現代は「仕事」というものの本質が捻じ曲がってしまったのだ。とても醜いものへと変質してしまったのである。例えばいきものたちに関して言えば、草花や、木々や、動物たちの命を、「生きるため」に頂くということから、「お金のために」育て、殺すということへと、変貌してしまったのだ。そしてそれが、許容され、共用され、共有され、次世代へ延々と継承されているのである。こんな世の中で、現代社会に対し拒絶反応を示す者たちが増加することは、火を見るよりも明らかであろう。

 しかし、ここまでわかってくると、一方で救いも見えてくるのである。そう───「お金のために仕事をしている。」これこそが、、、これこそが諸悪の根源なのだ。

 『1984年』ジョージ・オーウェル───誰もが強烈なインパクトを持っているはずだろう。僕はある時期から、現代社会の諸問題を、『1984年』のフィルター越しに観てもいる。そして僕は、このフィルター越しに、(少なくとも現時点で)ひとつの確信を得ている。


“BIG BROTHER IS WATCHING YOU.”
=
THE MONEY IS WATCHING YOU.


 資本主義というシステムの正体は、実は全体主義──(古い意味での)社会主義──のドッペルゲンガーなのではないか?という仮説だ。資本主義の元では、おそらく誰もが“2足す2は4”だと思っているはずだろう。しかし、それは実はとんでもない思い違いなのではないだろうか?なぜなら、資本主義という土俵の上でのあらゆる物事は、ビッグ・ブラザー(お金)によってその本質を、いとも簡単に捻じ曲げられる、あるいはすり替えられてしまうからだ。前述のように、本来自分自身が生き延びることが仕事というものの本質であったものが、いつのまにか、「世のため・人のため」へとすり替えられてしまったこと。そしてその大義名分の元に、まるであたかもプロパガンダそのものであるかのように、あらゆる事象の本質が歪曲され、すり替えられ、誇張され、宣伝される。───例えば身近なところで言えば、経済界からのあからさまなこじつけも甚だしい、失笑を禁じえないほどの、昨今のハロウィーンや恵方巻きのブームがいい例だろう。また、エゾシカやヒグマ、本州ではイノシシ、シカ、ツキノワグマ、サルなど、野生動物たちによる農作物などの食害や、人間の生活圏への進入による被害などの問題については、人間が生態系頂点捕食者である肉食動物を絶滅させ、かつその生活圏を次々に拡大(=野生動物たちの生活圏を侵食・破壊)していることがそもそもの発端・原因であるにもかかわらず、「駆除」という傲慢で手前勝手極まりない、反吐がでそうな言葉のもと(どういう神経なら野生動植物に対し「駆除」という言葉を平然と・公然と使えるのか!)、人間によって濡れ衣を着せられた彼らは殺害され、「ジビエ料理」として相も変わらずビジネスに、「カネの肥やし」に、「お金(幻)を生むもの」にされる。そのほか、野菜たちの生理が捻じ曲げられ、夏の野菜たちが冬に育てられ、そして売られる(逆も然り)。雄性不稔のF1種がもてはやされ、こぞって栽培される一方で、人々に歴史的に育てられてきた固定種が人知れず消えていく。美味しい・安全・安心と謳う野菜や米や麦などの農作物には、大量の農薬や化学肥料が使われ、土がどんどん痩せ、資本主義の民衆からは単一作物大量栽培が要請され、小規模・家族農業が軽視され、生物多様性が、つまるところ人間社会の健康や健全さがじりじりと蝕まれていく。そして、絶滅に瀕した野生動物の生活が悲劇として伝えられる一方で・美味しい肉にはしゃぎながら舌鼓を打つ娯楽番組が放映され、お金儲けのために食肉が外食産業やスーパーマーケットにもはや飽和状態で流通しているその裏で、家畜たちは一頭残らず人間によって生死を管理され、畜舎という人工の狭い箱庭のなかで、除角され、去勢され、尻尾を切られ、毎日毎日ひたすら肥えさせられ、搾乳されながら、そのコントロールされた短い生涯の無限ループを永劫に繰り返している!!!───本当に、心の底から、アニマルウェルフェア・動物福祉が重んじられる社会が実現して欲しい!家畜たちが安らかに暮らせる養護牧場がたくさんできて欲しい!!その鍵を握っているのは、他でもない我々消費者一人一人だ!!!我々一人一人の慎重な消費行動・少しの勇気で、それは絶対に叶う!!!!───またあるいは脱税、粉飾決算、不正会計、インサイダー取引など、企業や政治家などによる不正な金銭のやり取り、市場経済でも、政治でも、そして戦争でも、テロリズムでも、etc、、、───あらゆる場所で、あらゆる事象が、ビッグ・ブラザー──お金という絶対神──によって、その行方を左右されている。お金という絶対神が上演する市場経済という享楽・快楽劇場のもと、人間は自身の生存に必要なぶんを遥かに超えた、あまりにも多くの命を殺している。これらが、我々が暮らす資本主義社会の実体だ。そしてその正体・裏の顔は、他でもない我々自身が巧妙に隠蔽している(我々は自分で自分に嘘をついている)!!そして、資本主義の根は、今や先進国の養分をすべて吸い尽くし(飽和し)、いよいよ発展途上国の奥地の奥地の、美しく静かな清貧の山村にまでその触手を延ばしている───純粋で、心優しい人たちが担保できるはずもない、そんな人々を悪魔へと変貌させる、高利貸しと連帯保証システムだ───。そして、その吸い上げたすべての富は、一箇所へ──より大きな富へ──と集束していく。賑やかだった商店街がシャッター街と化し、大型ショッピングモールへ吸収・統合されていく。企業は有望なスタートアップを次々と飲み込み、ひたすら巨大化していく───GAFAがいい例だろう───。富む者はもっと富み、貧しい者はさらに貧しくなっていく。そして人々は、毎朝毎朝「仕事に行きたくない、嫌だ!嫌だ!!、、、。」と心の中で絶叫しつつも、仕事場に着けば同僚と「忙しくて死にそうだよ」と愛想を交わしながら、やがていつの間にか、その仕事や成果に達成感や充実感を感じている、、、ああ、なんということだろうか!───“二重思考(ダブルシンク)”を知らず知らずに体得し、そして見事なまでに体現しているのである、、、!!


これが全体主義と言わずして、一体何だと言うのだ!!!!


 資本主義の本当の正体は、全体主義なのだ。資本主義とは、「資本主義」という仮面を被った、全体主義に他ならないのだ。そして、我々資本主義の土俵の上に暮らす人間はすべて、知らず知らずのうちに、ビッグ・ブラザー(お金)と党(資本主義に化けた全体主義)を、心から愛してしまっているのだ!!そしてウィンストン・スミスのように、その思想の元に、処刑される日を待っているのである!!我々は見事に、ビッグ・ブラザーの手の平で踊らされている、、、いや、違う!自ら進んで、ビッグ・ブラザーの手の平で踊っているのである!!

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 しかし、資本主義にも、「まともな資本主義」として機能していた時代がかつてあった。産業革命から、日本では高度経済成長期と呼ばれた時代だ。人々には夢があった。戦後からの復興。豊かになりたいという切望。それらは疑いの余地なく、至極立派で、力強く、真っ当なものだ。そしてその時代、遮二無二働いた方々のおかげで、今のこの何ひとつ不自由のない、裕福な暮らしが実現しているのである。

───改めて、念のため、ここで宣言しておきたいと思う。僕はその方々に、心からの敬意と感謝の気持ちを持っている。例えば今、僕がこの文章をパソコンで執筆できているのも、突き詰めればその方々のおかげに他ならないからだ。砂糖と添加物がてんこ盛りの、缶コーヒーのキャッチコピーのように、まさしく“世界は誰かの仕事でできている”のである(しかし、それを盲信してしまうのは、ビッグ・ブラザーへの忠誠につながるという側面もある。)。嫌な言い方をすれば、我々はもはや、“極度に管理された世界に暮らしている(「「自然」という幻想」120ページのジョシュ・ドンランの言葉を引用)”のである。───

 しかし、そんな時代はもう、とうの昔に終わった。無限に資本を増やす・成長し続けるという資本主義のモデルは、もうとっくに崩壊している。世界中のどこを探しても、成長できる余地などもう無いのだ。それにもかかわらず、我々は未だに、かつての栄光の───虚栄の───時代の幻影を引きずり続けているのだ。事実、西暦2000年以前くらいまでは、生産性も労働者の賃金も右肩上がりだったが、それ以降から、生産性は引き続き上がり続けているが、賃金は下がり続けているという状況が続いている。というデータがある(2018/10/6, 7, 14放送のNHKスペシャル「マネー・ワールド〜資本主義の未来〜」より引用)。すなわち、資本主義はもう、完全に行き詰まっているのだ。そして資本主義はもう、誰も幸せにしないばかりか、地球上のあらゆるすべてを不幸にしはじめている。“資本主義はその成功ゆえに自壊する”というヨーゼフ・シュンペーターの予見が、今まさに「音を立てて」進行しているのである。そして、、、その自壊した瓦礫の先に、資本主義の真の姿(いや、変貌した姿と言うべきかもしれない)──全体主義──が見えてきたのだ。今やもう、誰もがわかっているはずだろう。結局のところ資本主義の究極は、すべての富を集約・統合する。そして、今まさに、その究極形態へとなりつつある。つまり、資本主義の最終形態は全体主義と同義。すなわち、資本主義は全体主義のドッペルゲンガーなのだ。


 人間は、いったい何のために働くのだろう?───現代人の労働は、「生きるため」ではなく、「お金のため」ということに変質・歪曲してしまった。そして、「お金のために働く」ということは、ビッグ・ブラザーすなわち全体主義のために働いているということだ。この流れを断ち切らない限り、人類は未来永劫、全体主義の奴隷として生きていくことになるだろう。「お金のために働くということを止める」、「貨幣という絶対神への絶対服従から、人類を解放する」、「貨幣という(本当はまやかしの)絶対的価値に囚われない・依存しない、「生きる」という生命の本質そのものに立ち返った人間社会、人間規範を、人間社会全体で育て、醸成していく」。これこそが、人類が次のパラダイム・ミームに脱皮する、すなわち、「人類(ホモ・サピエンス)の次の進化」のスタート地点に立つための扉を開ける「唯一の鍵」なのだ。そして、その扉の先には、本質そして生きるよろこびといった原点に回帰した労働の復興と、AIやロボットによって仮想化した経済、そしてベーシックインカム、人類とAIやロボットたちとの共同(協働)による「社会資本主義」が待っている。そして、人類が真に、、、いや、人類だけじゃない。人間、草花や木、魚や昆虫や動物たち、あらゆるいきものたち───僕らの兄姉たち───がお互いに安らかに、しあわせに、いのちへの慈しみや感謝に支えられながら、この地球に生きていく。「人類が真に地球に暮らす」時代の幕開けが、人類(ホモ・サピエンス)の次の進化の幕開けが、ついにやってくる。僕は今、そう、強く信じている。











“お前の好きな曲だ
ニコラ バート 二人の移民は冤罪で処刑された
だが死をもって人々に訴えたのだ
罪のない人間を 殺す社会がここにあると”

“私は自分で選ぶことを知らない
住む場所 しゃべる言葉
自分で決める自由など一度もなかった
だがお前はいま 自由だ
お前の好きにしていい

Skull Face
METAL GEAR SOLID V: GROUND ZEROES