ライル・メイズへの追悼・追憶と、僕の歩んだ音楽の道への追憶




 2020年2月10日、僕の最も敬愛する音楽家の二人のうち一人、ライル・メイズが天に召された。

 二人のうちのもう一人とはもちろん、パット・メセニー。僕の永遠の憧れ、僕の一世一代のアイドル・ヒーローである。ライルの訃報から1週間ほど経ち、気持ちも少し落ち着いてきたので、ライルとパット、パット・メセニー・グループ、そして音楽と僕との出会いを少し書き綴りたい。

 ライルの訃報を最初に知ったのは2月12日、Facebookのライルのページに以前僕が投稿したコメントへの、見知らぬ人がくれた返信でだった(教えてくれてありがとう)。ショックだった。その後二日間、僕は本当に───自分でも信じられないくらいに───打ちひしがれた。ただただ悲しかった。ほとんど何も手につかず、ライルのソロ名義のアルバムや曲───特に「Close to Home」───、あるいはパット・メセニー・グループでの彼のプレイを延々と聴いては、しくしくと涙していた。

 ああ、、、ライル、どうして?近い将来、またパットやスティーブと一緒に、パット・メセニー・グループとして新譜を出してくれると信じていたのに。「PMGの新譜が出る!!」というあのフレッシュなうれしさいっぱいの、ドキドキとときめきにまた出会えると思っていたのに、、、。病気だったなんて全然知らなかったんだ。今は演奏することに興味がなくなっているというネットでの噂が流れていたから、そうなんだとばかり思っていたんだ、、、。

 ライル、寂しいよ。そして、あなたの旅立ちによって、あなたとパットの音楽が僕と僕の人生にとってどんなに大切なものだったか、改めてわかった。ライル、ありがとう。ただただ、心からの感謝と、ご冥福をお祈りします。どうか安らかに、、、。




 僕の青春は文字どおり、パットと、その盟友ライルがコアであるパット・メセニー・グループの音楽といつも共にあった。僕にとって、僕の人生にとって、パットとライルは特別中の特別な人だ。僕が特別に多大な影響を受けた著名人は、実のところ本当にこの二人しかいない。もちろん実際に会ったり、話したりしたことなど無い。彼らのDVDや、せいぜい3度行ったPMGの来日公演で、遠くの席から彼らの一挙手一投足を食い入るように見ていたくらいだ。しかし───。

 多感な青春時代、僕にはいつも彼らの音楽があった。僕は彼らの音楽を聴いて、彼らの姿やふるまいを見て、成長した。パットとライルの音楽が、僕という人間の人格形成に多大な影響を及ぼした。僕は彼らの音楽から、音楽のことはもちろん、ファッションや色彩などアーティスティックなセンス全般、そして何より、生きる目標や、厳しさや、楽しさ、教訓───とりわけ、「常に前進することの大切さ・尊さ」───、人生についてまでも学んだ。音楽、とりわけパットとライルの音楽は、僕にとって「父親」の代わりでもあった───。

 僕には父親がいなかった。いや、実際にはいたが、子どもの頃からその存在は希薄だった。そして、僕は中学1年生からギターを始めていた。僕はギターをはじめた時から音楽に熱中した。学校から帰ってきては部屋に閉じこもり、あるいは学校帰りや休みの日に近所のCDレンタル屋さんに毎日のように入り浸り、CDアルバムを文字どおり「片っ端から」借りては、まだまだ全盛だったカセットテープにダビングし、気に入ったギターやピアノ、あるいはベースラインのフレーズなどを、巻き戻しては再生し巻き戻しては再生し、ギターによる「耳コピ」に明け暮れていた。そして、ギターをはじめてすぐに、ギターで作曲し、それをカセットに録音したりもした。ギターを手にしてから、僕は音楽に没頭した。音楽は僕を、それ以外のすべての「嫌な事」から匿ってくれた。音楽は僕を救ってくれたのだ───。

 そして、そんな年月を過ごすある日、パットとライルの音楽との運命の出会いは突然訪れた。今思えば、あと少しでも気後れしたり、「別にいいか」なんて思っていたら、彼らとの出会いを一生逃していたかもしれない───。今でもハッキリと憶えている。憶えているし、絶対に忘れられない・忘れたくない想い出だ。───ああ、、、こんなことを言ったらライルやもちろんパットに怒られるかもしれないが、、、もう一度、あの瞬間まで、時を巻き戻せたら、、、あるいは、あの時の僕に、今の僕から一言だけでも告げることができたなら───。

 確か、高校2年か3年生の夏休み───ちょうど父親が、僕らの生活から「完全にいなくなった」頃───だったと思う。ある日の昼間、僕はなんとなくテレビを見ていた。そしてチャンネルを適当に回しているうちに、突然その光景がテレビ画面に現れた。僕は文字どおり「画面に釘付けに」なった。

 「Have You Heard」───当時地方局によって放送されていた音楽番組「MTV」内での、PMGのDVD「More Travels」に収録されているこの曲の映像───の、パットのギターソロの場面。それが僕の目と耳に、全神経に飛び込んできた。パットとライル───パット・メセニー・グループ───、そして「ジャズ」との運命の出会いの瞬間だった。


 衝撃だった。

 それまでロックやポップス、その退屈な8ビートや16ビート、あるいは演歌やクラシックしかこの世に無いと思っていた、ギターにはフェンダーやギブソン、フェルナンデスなどのソリッドギターや丸いサウンドホールが空いたアコギしか無いと思っていた、マイナー・ペンタトニック・スケールしか知らなかった当時高校生の僕にとって、Have You Heardの鮮烈なサウンド───後に7/4主体の変拍子曲だと理解できるようになり、更に衝撃・唖然…!───とパットの抱えるES175。そのフィンガーボードの上を、隅から隅まで、縦横無尽に、それも(当時の僕には)超絶的なパッセージで駆け回るパットの運指───。衝撃。電撃ショック。唖然。「これは一体何だ!?」ただそれしかなかった。

 そして、曲の最後に表示されたクレジットを何とか少し覚え、大急ぎでメモをとった。確か、「Pat Mなんちゃら」くらいまで書き留められたと記憶している。「Have You Heard」という曲名はそのとき全く書き留められなかった。それからすぐに、僕のCDレンタル屋巡り、「Pat Mなんちゃら」のCD探しが始まった。近所に二軒あったCDレンタル屋はもちろん、隣の大きな街のCDレンタル屋にも数軒足を運び、わりかし(運良く?)早く、確か1ヶ月以内に見つけた記憶がある。当時パットたちの音楽ジャンルが「JAZZ」だと知る由もなかった僕は、店内を埋め尽くすCD棚の、「P」の列に膨大に並んでいるCDのジャケットを片っ端から一枚一枚見ては戻し、Have You Heardの映像で見たうろ覚えのパットやライル、スティーブやポール、ペドロ、アーマンドの顔や楽器や服装や雰囲気と、「Pat Mなんちゃら」という名前を照合しながら、なんとかそれらしき一枚のアルバム「Letter from Home」を見つけた。裏ジャケットのメンバーの写真やジャケットの雰囲気から「おそらくこれだ!これに違いない!」と、速攻で借りて光のごとき速さで家に帰ったものだ。

 一曲目に収録されている曲を聴いて、確かすぐにわかったと記憶している。あのテレビで見た曲が「Have You Heard」という曲で、あの人たちはこの「Pat Metheny Group」なんだということを。当時ロックやポップスしか知らず、バンド名はみんな「〜〜s」ばっかりなんだと思っていた僕にとって、「人の名前+Group」という何とも単純な・ひねりも何もない・そっけないバンド名がある・あってもいいんだという気づきに、妙に新鮮な驚きと喜びのようなものを覚えたことを記憶している。
 ただ、正直言ってCDでのHave You Heardを聴いても、全くピンとこなかったのを覚えている。あのテレビで見て聴いたHave You Heardの臨場感と迫力に全く及ばない、ノペッとした平たい演奏に聴こえたのだ。そんな感情を覚えたことはハッキリと憶えている。そして───、とりあえず何枚かアルバムを買ってみようと思い、早速パットのソロ名義の「Secret Story」と、確か「Still Life(Talking)」を買ったと記憶している(当時、僕はアルバイトで稼いだお金でひと月3万円以上もCDを買っていたものだ。「Still Life(Talking)」は神!!すべてが完璧なアルバムだ!!)。「Letter from Home」もそうだが、「Still Life(Talking)」も「Secret Story」も、ジャケットを始めて見ただけで大好きになった。ジャケットを見ただけで、それが自分の大好きになる音楽だということを直感したのだと思う。それまでハードロックの───メタリカとかガンズとかモトリークルーとかの───コピーバンドのセカンドギターなんかをなんとなくやっていて、あの不良全開というか、、、薄暗くて陰鬱な感じや、ライブハウスで観客が狂ったように頭をシェイクする光景に異様な不気味さ・違和感を感じていた(ただし、同じハードロックというジャンルとはいえ、ニコニコ飛び跳ねながら楽しそうに演奏するエディ・ヴァン・ヘイレンは別だし、今でも大好きだ。)、あの世界しか知らなかった僕にとって、PMGのあの一連のコラージュのカラフルでワールドワイドなイメージのCDジャケットデザインは、もうそれだけで、あの鬱屈な世界から離れようという気に至る、十分な理由になっていたんだと思う。


 そして、運命の瞬間が訪れた───。「Secret Story」冒頭の「Above The Treetops」が再生された瞬間。そして2曲目の「Facing West」のイントロが流れはじめ、この「Secret Story」という、パットの音楽による、世界を巡る壮大な大冒険の旅を聴き終えたとき、僕のそれから約15年の、音楽の道を「本当に目指す」という、人生の道が決まった。そして実は───、その15年に渡る旅の結末も、すでにその時点で決まっていた。




───本当はライルへの追悼のために、簡潔にこの文章をまとめようと書きはじめたのだが、パットとライル、パット・メセニー・グループの音楽や、音楽そのものとの出会いを書き始めたら、止まらなくなってしまった。このまま書きすすめたいと思う。パットと同じくらい偉大な天才、大好きな音楽家、僕の「父親」のような存在でもある、ライルへのオマージュになれば───




 なぜなら───、「Secret Story」を聴き終えた時点で、僕のやりたい音楽が完全に定まってしまったのだ。言い換えれば、パットとライル、そしてパット・メセニー・グループの音楽そのものが、僕のやりたい音楽そのものになってしまったのだ。彼らのつくる音楽が、僕のやりたい音楽そのものだった。つまり、パットとライルの音楽に出会った瞬間に、僕が音楽の道を進む理由そのものが、すでに無くなっていたのだ。だって、パットとライルの音楽が、僕の夢そのものになってしまったのだから。
 この事実に気がついたのは、まさしくその約15年に渡る旅を終える直前だった。その事実に気づいたからこそ、僕は音楽の道を諦めた。いや、、、諦めるための行動に移ることができた。僕はこの旅の最後に、最初で最後となるバンドマスターとしてライブに臨んだ。そのライブ後の自分の気持ちがどうなるのかを試したのだ。今後もまた引き続き、バンマスとして音楽の道を進んでいきたいという気持ちになるのか、否か。それを試すためのライブだった。もちろん、欲求があったのなら、引き続き音楽の道を進むつもりだった。しかし、、、。

 案の定、結局、そのライブが僕の、音楽の道を目指す旅の終着駅───「Last Train Home」───となった。、、、そう、「案の定」だ。ライブをやる前から、僕は自分の本当の気持ちにすでに気づいていた。しかし、悔いはもちろんある。今でもある。なぜなら、今でも音楽が大好きだから。大観衆が見つめるステージを用意してもらえるなら、今すぐにでも自分のギター演奏、音楽を披露したい。聴いてもらいたい!でも、これでよかったのだ。なぜなら今なお、僕はパットとライルたちの音楽に夢中であり、音楽において自分のオリジナリティを見出せないのだから。
 実際に、僕の15年の音楽の道は、パットのプレイから自分のオリジナリティを見出すこととの格闘の日々だった。僕はパットのギターフレーズや手癖を死ぬほどコピーし、ピックの持ち方や服装までも真似た。そしてそこから、ジャズの専門学校にも通いはじめ、音楽理論などを学んだ。そこでたくさんの先生や仲間と出会い、ライブを重ねたのだ。しかし、「パットの真似」から抜け出そうと、自分のオリジナリティを捻り出そうと足掻いても足掻いても、そこから抜け出すことはできなかったのだ。


 ああ、懐かしい。音楽の道を歩んでいたあの日々が、とても愛おしい。音楽が、パットとライルが、パットとライルの音楽が、僕に生きる希望を与えてくれた。パットとライルの音楽を聴くといつもみえてくる、どこまでも続く、まっすぐな道と地平線。どこまでも広がる、青い大空と雲───。僕はパットとライルの音楽に、広大で、大らかな、アメリカのランドスケープや大自然をよくイメージした。そしてそれが、音楽の道のあと(これもまた運命的に)進むことになる環境保全・エコツーリズムへの道、農業への傾倒、そしてついに叶えた、僕が今暮らす、北海道───広大なアメリカのランドスケープのイメージにそっくりな土地───への移住プロジェクトとその達成につながっている。


 すべて繋がっているんだ。そして僕をここまで、憧れの北海道まで導いてくれたのは、パットとライルの音楽があったから。今の僕があるのは、パットとライルの音楽と出会い、人生についてをも学び、教えてくれたから。そして、誇りをもって言える。音楽、パットとライル、パットとライルの音楽は、僕の父親でもあった。




 As Falls Wichita, So Falls Wichita Falls.

 ライル、そしてパット。あの頃夢にまで憧れた、このジャケットと音楽のような土地。僕は今、そこにいるよ。僕の青春は、常にあなたとパットの音楽と共にあった。あなたとパットが、僕をここまで導いてくれた。
 ライル、きっとあなたは、この大空で、あの風の精霊の声のようなシンセサウンドと、深遠な森から流れる、澄みきった聖なる水の流れのような、壮大なオーケストレーションのピアノを、悠々と奏でているんだよね───。

 ライル、僕はあなたとパットに、常に前進することの大切さ・尊さを学んだ。人生についてをも学んだ。パットはまだ前進し続けている。僕もこれからも前進し続けるよ。父親の代わりであり、父親のように大切な、あなたとパットに教わったことだから。僕はこれからも、いつも、あなたとパットの音楽と共にある。

 ライル、ありがとう。9月15日を忘れない。あなたはいつも僕の心のなかにいる。どうか安らかに、、、。

















 facebookにおける、ライルの姪オーブリー・ジョンソン、そしてパットによる、ライルへのオマージュ・追悼・追憶などを、ここにリンクしておく。特にパットのライルへの追憶だけはずっと忘れたくない。よって僭越ながら、ここに留めておくため、最後に転載させてもらった。誰よりも残念なのは、ライルの家族、親族、直接の友人知人、そして、長年に渡りライルと音楽そして人生の旅を続けてきた盟友、パット・メセニーその人と、バンドメンバーたちだろう。ライルに対する彼らの悲しみと愛しさがどれほど深いものか、僕ごときには察するに余りある。












"Further reflections from Pat

As a few days have passed here, I am getting so many requests to comment on Lyle’s passing. Over the past hours, in response, I took a few moments to further reflect….

There was a valuable lesson I learned early on from my most important mentor, Gary Burton; when you start a group, you have an obligation to choose the best musicians you can possibly find. And then, if you are lucky, once you have great people in place, you have an even more important obligation; to create an environment for them to do their very best.

The mandate of the bandleader as I understood it from Gary, (and I believe he understood it from Stan Getz who got it from —… who got it from —…ad infinitum) was to offer the most talented players every opportunity to develop the things that they are most interested to the highest degree possible under your auspices; to create a platform that intersects with what your goals are as a leader, but also a zone that provides a world open to exploration and expansion for everyone. When the moment comes that that intersection is no longer in sight for either side of the equation, that is when it is time to make a change.

With Lyle, as with Steve Rodby, that moment never came. There was always plenty to talk about. In fact, it seemed infinite.

My initial attraction to Lyle’s talent came first and foremost by way of his sensational abilities as a piano player. And I noticed from the first time I heard him that his playing reflected a deep and natural sense of orchestration. From there, things naturally led to an unmatched ability to do a kind of on-the-spot arranging/orchestration that was unprecedented - only Joe Zawinul had explored that aspect of small group playing in similar ways that provided inspiration. As the mandate of what the group was to be naturally and quite organically embraced the emerging musical instrument technology of the times, a new kind of sound became possible. Importantly, Lyle also carried a deep awareness of guitar - he was actually a very good guitar player, thanks to his dad, who also played. But he had so many skills and interests that paralleled mine, endless possibilities ensued.

Between the two of us, with Steve Rodby often as our essential and often unheralded guide, there was always a shared focus on the destination of music itself, and what an idea might become. Whenever we were working on anything or playing together in any capacity, it was always about it (the music), not us (the musicians).

I am so grateful for the time and music we shared together, and I am happy and proud that so much of it is well documented. People always ask if there might have been more. The answer is yes. The lifestyle of going out on the road night after night, for sometimes hundreds of nights at a time, is not for everyone and has real challenges - it is never easy for anyone and it is almost impossible to describe what it is really like. But, no matter what was happening in the day-to-day of it all, Lyle always gave it his all on the bandstand.

We did a brief round of gigs a while back, and it was clear in every way that he had had enough of hotels, buses, and so forth. But we had talked about doing a part 2 of “Wichita” at some point, there was a really wacky almost indescribably odd project that came up a few years back (maybe someday I will talk about it in detail) and we both agreed it could be a fun thing for us to do together, but in the end it didn’t pan out. No doors were ever shut between us.

I absolutely respected his privacy over all our time together, and it became a primary thing for me to protect that in recent years, as it will be going forward. As I wrote earlier. I will miss him with all my heart.

In addition to everything else; Lyle, Steve, and I were friends for going on half a century, and together we shared many of the ups-and-downs of our lives together here on the planet, on and off the bandstand. I am most grateful for that above all.

Thank you for all the amazing outreach at this difficult time. Steve, Aubrey, and I and his extended family appreciate the heartfelt condolences we are getting from around the world."