どこまでも 果てしなく続く 遥かなる大地
牛たちとの 静かで 穏やかで
満ち足りた 幸せな日々
ほんとうに ほんとうに ほんとうに
本当に 何もかも棄てることができるなら
できたなら
あの 最果ての地で
牛飼いとして 静かに 慎ましく
暮らしていけたなら
昨年のちょうど今頃、僕は道東で酪農の仕事をはじめた。あれから丸1年、畑では農家さんたちが一斉にトラクターを駆り出し、堆肥を鋤きこむ仕事がはじまった。あの日々とおなじ、暖かく、爽やかな春の風と、堆肥のにおいが、僕の記憶と感覚をぼんやりと呼び覚ます。
いつから春は、僕にとって「迷いの季節」になったのだろう。お日様がにっこりしたかと思いきや、急に吹き荒ぶ春風と春雨。草木たちもまだ疑っている。なかなか安定しない春の天候のように、僕の心もそわそわしている。僕のスローライフ実現に向けての試行錯誤は、まだ続きそうだ。
好奇心を持つということは素晴らしいことだ。だけどそれは「欲を持つ」ということでもある。行き過ぎた好奇心は、やがて一人歩きし、もう一人の自分ーーファントムーーとなる(THE PHANTOM PAIN!!!)。そして、躾のなっていない興奮した飼い犬のように、飼主を激しく引っ張り続ける。ファントムを責めることはできない。なぜなら、躾を怠ったのは他ならぬ自分自身だからだ。好奇心が「欲望」という亡霊に変質してしまったのだ。だけど、その亡霊はまた躾直すこともできる。それが無理なら、ただーーーただ、その手綱を手放せばいい。たったそれだけなのに、それができない。
人は、何者にでもなれる。
でも、何者かにしかなれない。
まだ僕は、僕を認められないでいる。そして、拒んでいる。
生きものたちはどうだ。草木や花、動物や昆虫、微生物、星々や宇宙ーーー。彼らは一片の迷いも、疑念もなく、裸一つで、無装飾で、正直に、純粋に、ひたむきに、ありのままに、生きている。
僕も、彼らのように美しく、素直に生きたい。そう願っているのに、はっきりと見えているのに、まだ、手が届かない。